
[巨大なオブジェに圧倒される]
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突然、木の棒を2本、放り投げた。
カラン、カラン
カラン、カラン
カラン、カラン
木と石が衝突する乾いた音が軽快に弾む。
残響もいい感じだ。
氏は、続けざまに小ビン数個を取り出し、転がし始める。
ジョロロロッピッピッ
ジョロロロッ
ジョロロ
ガラスビン同士が擦れる音、ガラスビンと地面(石)が擦れる音、これらが融合して不思議な音色を作り出す。
木と石
ガラスと石
今度は缶だ。
氏のカバンからピアノ線に連なった数個の空き缶が出てきた。
缶の中にはピンポン玉がぶら下がっている。
カラカラ、カラカラ、ガラ、カラッ、カラカラ
カラカラ、カラカラ、ガラ、カラッ、カラ
カラカラ、カラカラ、ガラ、カラッ
カラカラ、カラカラ
カンカラを引きずる様は、まるで犬の散歩のようだ。
それにしても、何という深い音なのだろう。金属と石が衝突する音とは思えない。

[神秘的な空間を闊歩しながら”カンカラ・サウンド”を奏でる山田
氏]
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[現場のサウンドを聴く]
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私は、氏と同じ場所にいるのを避けた。
これだけ広い空間。いろいろ動きまわって、音がどう反響するのかチェックしたいと思ったのだ。
階段を上がって少し高い所に移動してみた。
案の定、ヘンな場所から音が反響してくる。
面白い!と思った。
この非日常的な空間で感じる心地よさとは何なのだろう。
音、空間、心地よさ‥
広大な地下空間に立ち、目を閉じる。
山田 氏が奏でるカンカラ・サウンドが残響音となって耳に入ってくる。
耳で聞く音も、処理しているのは「脳」である。
そして、頭の中で湧き出る映像は「記憶」に密接だ。
個々の「記憶」があって初めて音の意味づけが可能になる。
カンカラ・サウンドを聞いて、何らかの映像が浮かんでくるのも「記憶」のおかげ。
記憶というのは3つのプロセスから成り立っている。
1)記銘(学習する)
2)保持(脳に詰め込む)
3)想起(思い出す)
そして記憶の種類は、
1)陳述的記憶(意識して思い出す)
2)手続き的記憶(意識しなくても思い出せる)
である。
記憶喪失になっても自転車に乗れるのは「手続き的記憶」があるからだ。
スポーツの技術やコンピュータの操作、楽器の演奏なども同様、自然に思い出すことが可能。
要するに、身体に叩き込まれた動作ということだ。
パソコンで文字を打つとき、ほとんど無意識のはず。
毎日入力しているパスワードも意識せず自然の動作として処理されていると思う。
「陳述的記憶」は、実体験から得る記憶。
学校で勉強した知識などは、引き出すという作業がある。
思い出などもそうだ。
我々は、この世に誕生してからさまざまな音を聞いている。
音は、さまざまなエピソードと結びついている。
感じることの楽しさを考えてみると、「記憶」は感性の財産であると捉えられるのだ。
デジャヴュ(既視感)などは、とても面白い。
初めての場所なのに、以前見た覚えがある‥というやつだ。
これは、脳の伝達ミスが引き起こすもの。
例えば、子供の頃に川遊びをしていて、その風景が記憶に残っているとしよう。
20年後、旅行先でそっくりの場所を訪れる。
その時、脳は誤った伝達をするのだ。
昔の記憶の欠けている部分を〜現在見ている風景から情報を取り出し、補ってしまう。
要は、脳が勝手にコラージュし、誤った情報を作りだしてしまうのである。
「偽記憶」と呼ばれている。
もしかしたら、予言というのは脳のイタズラから発展する現象なのかもしれない。
数年後の世界を見た!〜的なものだ。
いや、夢がなくなるので、やめておこう。
とにかく「記憶」と「音」について考えることは楽しく、捉え方次第ではアートとして成立する。
脳の伝達ミスであるデジャヴュでさえ楽しむことができるのだ。

[広大な地下空間に立ち、目を閉じる。音を導火線とする記憶アートの楽しさこそヒドゥンアートの原点。]
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